ある本との出会い
2002年4月、大好きだった仕事を辞めた。自分自身の中でも、きちんと仕事ができなくなっていることは何となくわかっていた。
妹が、泣きながら訴えていた気持ちも、夫が頼むから辞めてくれと言ったことも、辞める覚悟の引き金になった。少しずつではあるが、うつは良くなっていたけれど、年齢と病気と付き合いながら仕事を続けることには、自信がなかった。誰かに背中を押してもらいたいと、思っていた。
しかし、学校を卒業後職種を変えながらもずっと働いていた私にとって、働ける状態でないということは、自分は世の中から取り残されているような気がしていた。
そして、自分を責めた。
ある人からは、「充電期間だと思って、楽しむといいよ。」「長い間お疲れ様。」と、花束が届いた。それは、とても嬉しいものであり自分自身の働きを認めてくれた証だと感じた。
頭の中では理解ができていても、動かないからだが元のように動きたいと叫んでいる。一番怖かったのは、人と会うこと話すことだった。
「もっと太らないと・・・・・」「元気になって下さい。」
この言葉は、ありがたい言葉とわかっているが、その時の自分にとっては毒針を指されているくらいに辛かった。
自分自身に自信のなくなった私は、家に引きこもった。
買い物にも、出られない。天気が良いのか、そうでないのかもわからないくらい家から出なかった。

唯一の人との接点は、娘の学校の役員と、学童の父母会。
あとは、パソコンでのチャット。
これには本当にお世話になった。顔が見えないからとても楽だった。
話したいことは山ほどある。
でも、人と会うために出かけるエネルギーがない。今まで仲間だと思っていた人たちと会うことが一番辛かった。その中にいると動悸が止まらないのである。
悩みを打ち明ける場所はあるにはあったが、市民活動をしていたため知り合いが多すぎてその場所にはいけない。
ふと、チャットの部屋にHな話をしているところを見つけた。普通の人がセックスをどんな風に見ているのか、考えているのか知りたかった。
真面目街道まっしぐらの私には、エロい話をできる友達はいなかったし、もちろん父親から受けた性虐待のことなど、話したことはない。
ネットだから、顔や職業を気にせず話しができる。SMの話もした。その関係のHPも、ずいぶん熱心に見た。憧れのようなものまで持った。
後でよんだ性虐待の回復者のための本を読んでとっても、スッキリした。
そこには、セックスで感じることはよいことだと、書いてあった。自分を解放しその行為に浸ることは悪いことではない。それは、普通のセックスでもSMでも、同性愛でもとがめられる必要はないと書いてあった。このとき、普通ってなんだろうって思い始めた。
普通でなければならないといつも、言われてきた。
だから、「私は変?」って思う癖がある。
どこが基準?  たくさん賛成している人が多いのが普通?。。。o(゜^ ゜)ウーン
inserted by FC2 system